シドニーオリンピック以降
翌年行われたシドニーオリンピックで、
日本はグループリーグを2勝1敗で通過し、
決勝トーナメントの1回戦( 準々決勝 )でアメリカと対戦。
試合はPK戦までもつれ、
5人全員が決めたアメリカに対し 中田英寿が外した日本は、
惜しくもベスト8で敗退となった。
俊輔もこの試合の全得点に絡んだが、
世界に向けて大きく自分をアピール出来たとは言い難かった。
その後の俊輔の華やかな活躍はご存じの通りだが、
決して常に順風満帆だったとは言えない。
2000年Jリーグ MVP を当時最年少( 22歳 )で獲得するも
アントラーズとのチャンピオンシップで敗れ優勝を逃す。
2002年自国開催のワールドカップメンバーに落選。
活躍の場を海外に移しイタリア、スコットランドと渡り歩き、確かな足跡を残すも、
ドイツワールドカップでは体調不良で実力の半分も発揮できず、
グループリーグ敗退。名指しで戦犯扱いされる憂き目を見る。
その後、セルティックに戻り復調し、
2006-2007シーズンで、海外主要リーグで日本人初のMVPを獲得。
次に移籍したスペインのエスパニョールでは出場機会を失い、
2010年の南アフリカW杯を見据えて古巣のマリノスに復帰するが、
いまいち調子が上がらず、
岡田監督の大会直前の戦術変更に伴いポジションを失い、
チームがベスト16の結果を残すなか
出場したのは第2戦のオランダ戦の後半のみ。
失意のうちに帰国し、代表引退を発表する。
その後2013年にはマリノスで縦横無尽の活躍を見せ、
円熟味を増したプレイが評価され
2度目のJリーグ MVP を獲得するが、
チームは最終戦で川崎フロンターレに敗れ、
またあと一歩のところで優勝を逃す。
その後、ジュビロ磐田を経て 現在の横浜FCに至る。
こうして振り返るだけでも
彼が 如何に紆余曲折、波乱万丈なサッカー人生を歩んできたかが分かるだろう。
それは彼のプレイスタイルに大きく関係している。
華やかで観ている者を楽しませる俊輔のプレイは、
周りのサポートがあってこそのもので、
降格圏内のチームなど相手が格上で、
劣勢な戦いを強いられるチームでは諸刃の剣となる。
これは彼のようなタイプの選手を所有する
すべてのチームが抱えるジレンマであろう。
それでも調子が良い時は、
肉体的なハンデを撥ね返すほどのキレと判断の速さで、
強豪相手でも才能を発揮することもあったが、
ことワールドカップにおいては 大会との相性もあってか、
参加した2大会ともほとんどインパクトを残すことは出来なかった。
しかし、面白いことに大きな挫折を味わった後にこそ
俊輔はまた一段と飛躍するのだ。
そこがまた、彼が皆に愛される理由であろう。
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